【H29改訂版】英コⅠ UNICORN1 文英堂(345) Lesson10 本文和訳
【H29改訂版】英コⅠ UNICORN1 文英堂(345) Lesson10 本文和訳
ここでは教科書の和訳を掲載しています。あなたの勉強時間の短縮に是非お役立て下さい。本文和訳をするのに辞書を引いて調べていた時間を短縮して、ほかの勉強に時間を充てて下さい。勉強の基礎は時間の有効活用にあります。
LESSON 10
Words and You
高校1年生が何やらちょっとした悩みごとを抱えている。いつもは友達に悩みごとを打ち明ける彼女だが、ここでは未来の自分に手紙を書いている。
去年の4月、クラスメートたちと最初に会ってからあっという間に時が過ぎた。最初その人たちは私にとって未知の人たちで、私は声をかけるのも及び腰だった。臆病すぎたと思うかしら。そのとおりかもしれない。でもがらがらに空いている電車を考えてみて。見知らぬ人の隣に座ろうとは思わないでしょうし、見知らぬ人がやって来て隣に座ったら、 いくらか怖く感じるのじゃないかしら。少し大げさな言い方だってことは分かっているけれど、でも私は本当のところ、だれとでも初対面のときには必ずヘマをしてしまうの。少し引っ込み思案だったかもしれないけれど、幸運にも4月以降クラスメートの何人かと友達になった。
不思議ね、どうやってあの人たちを友達に選んだかよく覚えていないの。たぷん思いがけない場所で偶然出会ったのがきっかけで仲よくなった、というようなことだったのかもしれない。でもそんなことを言えば、ほかの人とだって偶然に出会うことはあったわ。親しい友人について言えるのは、何らかの理由でお互い最初からウマが合ったということね。
少なくともその理由の一部ははっきりしている。その人たちのモノの考え方、 感じ方に関心を持ったの。もちろん、ほかの人たちがどのように考えどう感じるかなんて簡単に分かるものではない。それに近づくには言葉のやり取りによるしかないのだけれど、ほとんどの場合、最初に言葉を交わすときはとてもぎこちなくなる。このとき 「文は人なり」という警句が当てはまるのかもしれない。そんなぎこちない言葉のやり取りの中でも、好きなところ嫌いなところを感知するのだから。友達ってそんなふうにして見つけるのだと思う。
でも正直に言うと、私たちの友達づき合いに問題がないわけじゃない。いつだったか結局最初私が思っていたのとは違う人だったと分かった友達も何人かいた。裏切られた気がしてとても悲しかった。私は心の中で思った、「彼女があんなことを言える人だなんて思わなかった。私たちって本当に友達かしら。私は彼女を喜ばせるために無理をしすぎたのじゃないか、それとも彼女は私に調子を合わせただけで、本当は気にもかけていないのじゃないか」。同時に、自分は彼女のことを正しく理解していたのだろうか、そして彼女も私のことを正しく理解していたのかとも思った。
きょう、私はテニス部の友達とけんかをした。彼は冗談で言ったのに私がそれを悪意のある言い方だと取ったからなの。すぐにこちらの誤解だと気づいたのだけれど、そのときにはものすごく腹が立って、「ごめん、私が悪かった」と言えなかった。
そのことではまだ落ち込んでいる。でもどうやったら彼と仲直りできるだろうか。直接謝るのはちょっとばつが悪いし。携帯でEメールを送るっていうのは悪くない。でもEメールで私の誠意が伝わるだろうか。言葉で気持ちを伝えるのって難しい。面と向かって言葉を交わすときには、そのときの互いの声の調子や顔の表情の助けがあるから、気持ちは伝わりやすい。Eメールのことばはいつも気持ちを正しく表現できるとは限らない。自分もこれまで何げない言葉で友達を傷つけてきたのではないかと心配になる。
あすの部活は楽しめそうもない。言葉って一度口に出したら簡単には取り消せないって、つくづくその通りね。これから何年かしたら、こんな問違いをしなくなるかしら。
今、彼女は図書館で偶然見つけた本を読んでいる。その本は人生についての洞察に満ちているようだった。
第 3 章
文学への道
この章では私たちがなぜ文学を読むかについて少し述べたい。もちろんそれを簡単に説明することはできない。文学は必要なく、詩や小説を読むのは時間のむだだと言う人もいる。ことによるとある場所に向かって脇目もふらずに進んで行く人たちに文学は不要かもしれない。そうした人たちはつねに曇りのない視野を持っていて、目的地とそこに至る道を決して見失わない。
彼らはたぷんその曇りのない視野にすっかり満足てしいる。しかし私の見るところ、私たちの多くは目的地を見失い、道をそれてしまう。人生はしばしば私たちの期待を裏切り、私たちの視野を曇らせるため、結果として私たちに歩くのを止めさせ、そしておそらくは私たちを文学へと向かわせるのである。
文学に意味を幾重にも織り込んだ表現があふれている。というのも、文学は人生が理解しがたいものであることを知っているからだ。
「小さな誠実は危険なもの、それがたくさんになればどうにも致命的だ」という文章を読んだとき、慰められるだろうか、それとも不快感を覚えるだろうか。
こうした表現は、ことばが単ーの意味ではなく言外に多くの意味の含みを持っていることを思い出させる。そしてこの言外の意味によって、友達間でも誤解が生じかねないのである。
文学は多様な役割を演ずる多様な人物を提示する。現実の人間とはかけはなれていると思える人物もいるだろうが、その一方、ときには自分たちとよく似ていると思える人物もいるだろう。こうした作中人物たちは、私たちが現実の生活では味わいそうもないさまざまの経験をする。
たとえば、ある物語のヒロインは「尼寺へ行け」という恋人の言葉を誤解した。それ以来、彼女ば恋人にずっと悪感情を抱いていたのだが、10年経って、まったくの偶然から恋人の真の言葉の意図を知ることになる。彼は彼女をやっかいなことに巻き込みかねない危険な行為に手を染めようとしていたので、彼女を自分から遠ざけておきたいと思ったのである。彼女はそれを知ってうれしく思い、また失われた10年という年月を悲しく思う。彼女の経験は私たちのものではいなけれども、もちろん、私たちはそれを共有する。彼女の抱く喜びと悲しみのない交ぜになった感情と、それを描き出す豊かな言葉がともに私たちの心深くにしみこむ。私たちは彼女の経験から自分自身の悪感情を制御するす
べも学ぶと言えるかもしれない。
文学は私たちの経験を広げる機会を与えてくれる。そして広がった経験は他者に対する共感を深めるに違いない。